動画でお散歩 / 証城寺の狸囃子

童謡
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■ 童謡 / 証城寺の狸囃子

証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)とは日本の童謡である。

作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。

台湾では同じ旋律を流用して、『小白兎愛跳舞』という童謡に改編された。朝鮮でも同旋律を流用し、『北岳山の歌』という童謡に改編されている。

詩人で童謡作詞家であった野口雨情が千葉県木更津市を訪れた際、童謡の題材にと木更津市内の證誠寺に伝わる「狸囃子伝説」を提供された事を契機に作詞を行い児童雑誌「金の星」1924年(大正13年)12月号で発表。
その後、中山晋平がその歌詞を元に改作し曲を付けて児童雑誌「金の星」1925年(大正14年)1月号で発表した。
なおこの際、野口は旅行中で連絡がつかず掲載は「金の星」主宰・齋藤佐次郎の独断であった 。

■ 作詞者:野口雨情(のぐち うじょう)について

野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日〜1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)出身。 廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。

東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を自費出版。1907年(明治40年)三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社を結成するが、その後しばらく詩作から遠ざかる。この時期、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ。しかし雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社し、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わる。1909年(明治42年)に北海道を離れ、いったん帰郷した後再度上京する。

1919年(大正8年)詩集『都会と田園』により詩壇に復帰、斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表。藤井清水や中山晋平や本居長世と組んで多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。

他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年(昭和10年)には日本民謡協会を再興し、理事長に就任している。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した。また同じ年の1月、仏教音楽協会も設立され、雨情は評議員に推薦される。仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や発表、普及にも力を尽くした。

1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)疎開先の宇都宮市近郊で死去。

代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など、枚挙にいとまがない。他に『波浮の港』『船頭小唄』など。

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最終更新 2011年2月12日 (土) 03:02