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前原外相が辞任表明  外国人献金問題で引責 菅政権に深刻な打撃

前原外相は6日夜、外務省で記者会見し、政治資金規正法で禁じられている外国人から政治献金を受け取っていた問題の責任を取り、外相を辞任する意向を表明した。
前原氏は「在日外国人から政治献金を頂いていたなどの私の政治資金を巡る問題について、一両日、熟慮を重ねた結果、職を辞することにした。菅首相にも決意を申し上げ、了解頂いた」と述べた。菅首相からは慰留されたが、「外交に空白を作ってはいけない」として、辞任を主張したことも明らかにした。
前原氏は「クリーンな政治を目指していたのに、政治とカネの問題で不信を招いてしまったことを国民におわびしたい」と陳謝し、「職にとどまることで、内外の国政課題の推進が滞ることは避けなければいけない。2011年度予算案審議が重要局面で、私の問題で国会審議を停滞させるわけにはいかない」と述べた。
さらに「外相の職を辞することで政治家としてのけじめをつけ、足元を見つめ直し、しっかりと再構築に力を注ぎたい」と話した。

2011年3月6日

掲載の映像
◆ 前原外相の辞任会見(2011年3月6日夜)
◆ 京都市内で焼肉店を経営する在日韓国人の女性から過去に5万円づつ、
合計20万円の献金を受けていた。(辞任前日のインタビュー)
前原誠司
credits:wikipedia  public domain(公有)
2010年12月6日/アメリカ合衆国国務省にて
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前原 誠司(まえはら せいじ)

2011年3月6日

前原 誠司(まえはら せいじ、1962年4月30日 〜 )は、日本の政治家。外務大臣(第144代)、民主党所属の衆議院議員(6期)。

松下政経塾生、京都府議会議員を経て、1993年の衆議院選挙で初当選。(以来、連続当選6回)。

民主党代表(第5代)、国土交通大臣(第12・13代)、特命担当大臣(防災担当)などを歴任。

■ 生い立ち
京都市左京区に生まれた。両親は鳥取県人であり、父親は境港市、母親は日野郡日南町出身である。

父親は京都家庭裁判所の総務課庶務係長だったが、中学2年生のときに自殺、母子家庭で苦労したという

■ 学生時代 / 中学・高校時代
中学受験で前原が合格したのが奈良の東大寺学園と、姉も通う京都教育大附属中だった。本人は東大寺学園に進学希望だったというが、家計の事情で私立より公立を望む母親の意向や、男子校よりも共学校に進学させたいという希望もあり京都教育大附属中に進学した。

数学、物理が好きで京都教育大附属中・同高校の中1から高3まで6年間、数学専門の塾に通った。

父の死もあり、高校1年生から大学を卒業するまで奨学金を受けながら勉強する。

高校卒業時に京都大学を受験するも失敗、浪人時代に手にした高坂正堯の『国際政治』を読んで、リアリズムの視点に開眼。同時期に読んだイマニュエル・カントや坂本義和の著作に違和感を感じ、高坂のほうに惹かれたことを、自身の分岐点であったと述懐している。

■ 大学時代
京都大学法学部に入学、高坂正堯の下で国際政治学を学ぶ。高坂ゼミ在籍時、外交官の道に進むか大学に残るか、あとは漠然と政治家にと考え高坂に相談したところ、「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんが、それほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」との助言を得、政治家としての道を決意した。

■ 松下政経塾時代
高坂門下で松下政経塾出身、当時東京都議会議員だった山田宏(前杉並区長・後に前原とともに日本新党に参加)を紹介される。その山田に感銘し、1987年(昭和62年)、松下政経塾へ第8期生として入塾する。山田によれば当時から凄まじい野心に燃えており、「外務大臣になって国の役に立ちたい」と語っていたという。同期生に玄葉光一郎や勝又恒一郎がいる。

■ 政界へ京都府議会議員
1991年(平成3年)、松下政経塾を卒塾。被選挙権を得た最初の京都府議会議員選挙に立候補し、後に同じ京都出身の衆議院議員となる北神圭朗ら学生ボランティアの支援により府議会史上最年少で初当選を飾る(現在は尾形賢が最年少記録更新)。なお、前原の選挙区である左京区は日本社会党衆議院議員の竹村幸雄の当時の地盤でもあった。

■ 日本新党 - 民主党
1992年(平成4年)長浜博行に請われ、野田佳彦、山田宏、樽床伸二、中田宏らとともに日本新党へ参画。同年の第16回参議院議員通常選挙では近畿・四国エリアで応援に回り、新党ブームに一役買う。

1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙で京都1区において日本新党公認新党さきがけ推薦で立候補して初当選(同区で日本共産党穀田恵二や京大法学部の先輩公明党竹内譲も初当選)。しかし東京佐川急便事件での細川の借入問題に端を発した連立政権崩壊によって、細川内閣が総辞職。その後、枝野幸男、荒井聰、高見裕一らとともに日本新党を離党し、民主の風(院内会派)を結成する(松下政経塾の先輩で兄貴分的な存在であった山田宏は、前原が恩人たる党首細川護煕に対して後ろ足で砂をかけるように出ていったことや、日本新党離党について自分に一切の相談がなかったことに激怒した)。さらにその2ヵ月後には「民主の風」メンバーとともに新党さきがけに合流し、政調会長の菅直人(当時)のもとで政調副会長、院内幹事(国会対策委員長)渡海紀三朗の下で院内副幹事(国対副委員長)をそれぞれ歴任する。1995年(平成7年)第17回参議院議員通常選挙では与野党を超え民改連現職笹野貞子支援。1996年(平成8年)の総選挙直前に旧民主党、1998年(平成10年)の民主党の結党に参加。1999年(平成11年)1月民主党代表選挙では塾の先輩で同じ政令指定都市選出の都道府県議経験者で、1993年(平成5年)の衆議院に初当選した同期の松沢成文の推薦人、同年9月の代表選挙では菅直人の推薦人となる。2001年(平成13年)第19回参議院議員通常選挙では京都選挙区で通商産業省を退官した松井孝治を支援(笹野は喧嘩別れし無所属で出馬)小泉旋風で勢いに乗る総裁派閥清和研現職西田吉宏の後塵を拝したが初当選に導いた。

2002年(平成14年)9月の代表選挙では、鳩山・菅の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため「第二期民主党をつくる有志の会」を結成する。若手統一候補として同じ松下政経塾出身者の野田佳彦と並び、代表選候補に名前があがったが、最終的に(小宮山洋子ら自身の推薦人名簿に名を連ねる予定だった国会議員とともに)野田を推薦する側に回った。このことが、後の代表選挙で野田が前原を支持するきっかけになった。

この時期は2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件にともなう自衛隊派遣や有事法制の整備など、戦後の安全保障体制が大きく変革を迫られる時期であった。前原はこれらの諸問題に、党を代表して政府側と修正協議などの交渉に当たるなどして、外交安保の専門家としての評価を高めていった。党内では幹事長代理、「次の内閣」ネクスト外務大臣、ネクスト防衛庁長官なども務めた。

■ 党代表選挙
2005年(平成17年)9月11日の第44回衆議院議員総選挙で民主党は大敗を喫したが、自身は(前原と中選挙区時代戦った伊吹文明が会長代行たる)志帥会新人で政経塾の後輩の山本朋広を破り、小選挙区勝利で再選。党代表の岡田克也は辞意を表明した。前原は岡田後継の代表選挙に立候補し、9月17日に菅直人を2票の僅差で破り、第5代代表に選出された。下馬評では菅やや有利と伝えられていたため、前原の勝利は驚きをもって報じられたが、読売新聞などのメディアが、“新代表はジャニーズ系”、“永田町の郷ひろみ”と報じ、朝日新聞が「目指せ、日本のブレア」と題した社説を載せるなど、若々しさや清新さは概ね好意的に受け止められた。

■ 内政と外交
2005年11月代表就任後は人事で明確な世代交代を進める一方、反対野党に終始しない「対案、提案路線」を掲げ、与党の重要法案に対しては、積極的に対案を提出することを宣言し、民主党の“政策立案能力”、“政権担当能力”のアピールを試みる。その後も長く民主党の支持母体となっていた日本労働組合総連合会等の労組との関係を見直すと主張。労組とは党との考え方の違いを率直に議論しながら是々非々の関係を構築し、労組依存の体制から脱却して行くことを掲げた。

2005年(平成17年)12月2日に東京の大学において講演した際、「日米安保と防衛の一方的な依存は、アメリカに対する過度の甘えである」として、自民党の対米追従を批判した。同月中旬の自らの米中歴訪では、「中国の軍事的脅威に対して日本は毅然とした態度を取るべきである」という持論を展開した。9日(現地時間8日)の戦略国際問題研究所(CSIS)における講演では、中国の軍事力増強について現実的な脅威と指摘(中国脅威論を唱えた)し、またシーレーン(海上交通路)防衛の要求上、日本の集団的自衛権を認めるべく憲法改正の必要性を訴えたが、これには民主党内の左派から党内合意を経ていないとの批判を受けたほか、中国政府の反発を呼び、予定されていた会談を中国側がキャンセルするという事態に繋がった。同13日に前原は訪問先の北京で記者会見を開き、中国脅威論の主張を根拠に要人との会談を拒否した中国政府の対応を批判して、「(率直に物を言わぬ上辺での)友好は砂上の楼閣になってしまう」と指摘した。

2006年(平成18年)3月6日神奈川県内で開催された民主党所属の参議院議員の朝食会で政令指定都市選出の道府県議について「ほとんど仕事がない。神奈川県議会の半分以上が横浜、川崎から選ばれているのはおかしい」などと政令市県議不要論ともとれる主張を展開、大きな話題になった。

こうした対案路線や労組依存からの脱却、対中外交のタブーに囚われない姿勢は党内左派との軋轢を生みながらも概して好意的に受け止められたが、後述の堀江メール問題で大きく躓くことになる。

■ メール問題
2006年(平成18年)の第164回通常国会は冒頭から耐震偽装問題、米国産牛肉の輸入問題、ライブドア事件、防衛施設庁の官製談合事件など所謂「4点セット」により民主党は与党を追い詰める立場にあった。しかし2006年(平成18年)2月、衆議院予算委員会で永田寿康の質問に端を発した堀江メール問題に関連して、民主党は十分な証拠を開示できなかった。さらにライブドア関連の情報を精査する中で、ライブドアと武部家の間に密接な関係があるのではないかとする情報も民主党にもたらされていたことで、前原はひとまずメールの真偽論争は避けて、国政調査権行使によって武部の息子の金融機関の口座を調査するよう党首討論で小泉首相に要求した。同時に、自民党が国政調査権の行使を確約するならば、これを担保に金融機関の口座番号も含めた情報を民主党も提示するとしたが、この追及は騒動の発端となったメールの信憑性が低いために逆に批判を浴び、前原や民主党の立場を弱めることになった。これに対して自民党からは非難の声が上がり、民主党への抗議の電話が殺到することになった。

これに関して、問題となった偽メールをいわば「見抜けなかった」前原自身の進退問題が取り沙汰されることとなったが、2月28日に謝罪会見を行い、同時に代表続投を宣言した。しかし代表選挙で前原陣営の選挙対策委員長として票を取りまとめ、前原の意思を尊重して国会運営に当たっていた国会対策委員長の野田佳彦(当時)の引責辞任を余儀なくされ、執行部の右腕を失う結果となってしまった。前原の代表続投宣言のあとも、民主党の堀江メール問題はマスメディアで取り上げられ続け、最大の責任者かつ当事者である前原の代表辞任はもはや避けられないと見られていた。2006年(平成18年)3月31日、前原も代表辞任を表明した。前原の代表辞任の表明を受けて、鳩山由紀夫も幹事長辞任を表明、永田寿康も代議士辞職を表明した(永田は後に自殺している)。4月7日、民主党代表選で小沢一郎が菅直人を破って当選し、前原体制は半年余りで終焉した。

2008年(平成20年)に刊行された民主党秘書らによる『民主党10年史』(第一書林)では、メール問題について「普通の企業なら当然備わっている筈の危機管理と統治能力がなかった」「党執行部の仲良しグループ化が生んだ情報囲い込み」と指摘し、前原と(事件から半年後に自民党総裁に就任した)安倍晋三を「タカ派的体質、自信過剰という点で 共通点が多い」とした上で「両若手指導者が短命で終わった点は興味深い」と述べている。

■ 民主党代表辞任後
2007年5月、第31回日米安全保障専門議員交流にて2006年(平成18年)10月衆議院議員補欠選挙では選挙の直前に、テレビ各局で、同時期に起きた北朝鮮の核実験に対して、周辺事態と認定されうる6類型のうち、6番目の類型に限りなく近いとして「周辺事態法を適用するべきである」と発言し、北朝鮮の核実験は周辺事態にあたらないとする民主党執行部の「周辺事態」論議を痛烈に批判した。これによって、安全保障政策における民主党執行部と前代表である前原や彼に同調する勢力との亀裂が表面化するとともに、党の方針を小沢・菅・鳩山のいわゆるトロイカ体制のみで決定するべきではないという執行部への批判が噴出することとなった。同時に民主党の外交防衛部門会議は、小沢、菅、鳩山らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではないとする声明を発表した。また、「『核保有を議論すべきではない』との考えか」との質問に対し、「『議論をすべきではないとは考えていない』が、現在の状況では議論すべきでない」と発言し、一応は平時の核議論を容認した。だが、自身の公式サイト、産経新聞などで、

「日本が核を保有したとしても、核保有国であるアメリカや中国と瀬戸際外交を行う北朝鮮に対する抑止力とは成りえず、核拡散防止条約からの脱退も余儀なくされ、国際社会からの制裁を受けると共に、一連の流れによって日本自身がNPT体制を脆弱にし、結果的に北朝鮮やイランの核保有をゆるしてしまう。また、アメリカとの同盟関係を見直してまで今すぐ日本が核を持つことに意義は見当たらない。」

といった趣旨の見解も示したことから、日本の核武装に関して基本的には反対の立場をとっている。また、そもそも核武装論議にも批判的である。

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=掲載のテキスト=
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著者:空欄   掲載サイト
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