出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』"お出
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。
南都七大寺の一つに数えられる。
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。
古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。
南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。
「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年−720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。
この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。
不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
=掲載のテキスト/画像について=
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
著者:Reggaeman
掲載サイト
掲載のテキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。
掲載の画像はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスのもとに利用を許諾されています。