日本の世界遺産/平泉の文化遺産

2011年6月 平泉の文化遺産 世界遺産に登録されました。

登 録 物 件 概 要

平泉町(ひらいずみちょう)は、岩手県南西部に位置する町。 平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地となった町として有名である。奥州藤原氏の時代には平安京に次ぐ大都市として栄えた。現在でも、中尊寺や毛越寺などの遺跡から、当時の繁栄を偲ぶことができる。

平泉−仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群

平泉周辺には、奥州藤原氏四代による、都の文化の影響を受けながらも独自に発展させた仏教寺院、浄土庭園などの遺跡群が存在する。周辺の自然景観と一体となったその文化的景観は、世界でも類例のない貴重な遺産と評価され、2001年(平成13年)6月に世界遺産の暫定リストに登載された。

2011年(平成23年)6月25日、第35回世界遺産委員会では、勧告通り柳之御所遺跡が除外される形で世界文化遺産への登録が決定した。なお、世界文化遺産は東北地方で初の登録となる。

構成要素 :◇中尊寺 ◇毛越寺 ◇観自在王院跡 ◇無量光院跡 ◇金鶏山

高舘義経堂から見た束稲山と北上川。  (credit : wikiperia 掲載ページ  public domain (公有)
平泉町
知床五湖と硫黄岳
中尊寺 / 金色堂覆堂
知床五湖と硫黄岳
金色堂の須弥壇に安置された奥州藤原氏三代の木棺
知床五湖と硫黄岳
毛越寺(庭園)
知床五湖と硫黄岳
高館義経堂
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藤原4代のミイラと副葬品

金色堂の須弥壇内には、藤原清衡、基衡、秀衡のミイラ化した遺体と泰衡の首級が納められている。

金色堂には「中央壇」「左壇」「右壇」の3つの須弥壇があり、各壇に1体ずつの遺体を安置する。

寺伝では中央壇・左壇・右壇の遺体が順に清衡、基衡、秀衡のものとされていたが、1950年に実施された学術調査の結果からは寺伝と逆に、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡であるとするのが定説となっている。

泰衡の首級(寺伝では弟の忠衡の首級とされていた)を納めた首桶は右壇に安置されていた。なお、ここで言う「左壇」「右壇」は本尊から見ての「左」「右」であり、拝観者の視点では向かって左が右壇、向かって右が左壇である。左壇を「西北壇」、右壇を「西南壇」と呼ぶ場合もある。

3つの須弥壇のうち、中央壇が最初に造られ、左壇・右壇が後設であることについては研究者の間で異論がない。しかし、左右壇の増設時期については、右壇が先に造られ、左壇は後に造られたとする説と、左右壇とも同時に増設されたとする説がある。

さらに後者の説については、左右壇とも基衡の時代に造られたとする説と、左右壇とも秀衡の時代に造られたとする説とがあり、いずれも定説とはなっていない。

基衡は保元2年(1157年)頃に没し、秀衡は文治3年(1187年)に没しているので、各人の没年前後に右壇・左壇がそれぞれ増設されたとすると、両者の間には約30年間の開きがあることになる。

右壇と左壇とを比較すると、格狭間の意匠や天井の施工方法などに差異が見られるものの、その差異は微妙なもので、これを時代の差と見なすか、工人の個性や技量の差と見なすかは論者によって異なる。

藤原4代の遺体と副葬品については、1950年に朝日新聞文化事業団による学術調査が実施された。
調査は朝比奈貞一(理学博士)を団長とする調査団によって行われ、美術史のみならず、人類学者の長谷部言人、微生物学者の大槻虎男、ハスの研究で知られる植物学者の大賀一郎などの専門家が参加し、遺体についてもエックス線撮影を含む科学的な調査が実施された。調査の結果は『中尊寺と藤原四代』という報告書にまとめられている。

エックス線画像診断を担当した足澤三之介(たるざわさんのすけ)の所見によれば、中央壇の遺体が最も高齢で死亡時推定年齢70歳を越え、死因は脳溢血等の疾患で、左半身に麻痺があったとみられる。年齢的には右壇の遺体がこれに次ぎ60歳から70歳、死因は骨髄炎性脊椎炎と推定される。

左壇の遺体は3体の中では比較的若く60歳前後で、長期間患っていた形跡がなく、壮年期に卒中などの疾患で急死したとみられる。
今日では中央壇の遺体は清衡、右壇の遺体は基衡、左壇の遺体は秀衡のものとするのがほぼ定説で、これが正しいとすれば、寺伝とは左壇・右壇が逆となっている。

ただし、基衡は正確な生年は不明ながら、50歳代で死亡したとみられ、上述の診断結果と合致しないことから、遺体に関しては所伝どおり左壇 = 基衡、右壇 = 秀衡とする見方もある。

遺体がミイラ状になって保存されていることについて、何らかの人工的保存処置によるものか、自然にミイラ化したものかは解明されていない。学術調査団の一員である長谷部言人は報告書『中尊寺と藤原四代』の中で、遺体に人工的処置が加えられた形跡はないという見解を述べている。

遺体を納めていた棺(木製金箔押)や副葬品については、調査結果から右壇が基衡、左壇が秀衡のものである可能性が高いとみられている(寺伝とは左右逆)。

上記学術調査に参加した石田茂作(美術史)によると、左壇の木棺のみ、漆塗りの前に砥粉下地を施しているが、これは進んだ技法であり、3つの棺の中で最も時代が下がるとみられることから、これが3代秀衡の棺である可能性が高い。

なお、遺体や棺が人目に触れたのは1950年の学術調査時が初めてではなく、江戸時代にも堂の修理時などに棺が点検された記録がある。
相原友直が安永年間(1772 - 1780年)に著した『平泉雑記』によれば、元禄12年(1699年)、金色堂の修理時に棺を移動している。

棺と共に納められていた副葬品には、白装束と枕のほか、刀剣類、念珠などがあり、他に類例のない貴重な学術資料として、一括して重要文化財に指定されている。

副葬品には都風のものと、鹿角製の刀装具のような地方色の現れたものがある。
棺はヒバ材で、内外に金箔を押す。金箔の使用には、金色堂の建物自体に使用された金箔と同様、遺体の聖性、清浄性を保つ象徴的意味があると見なされている。

中央壇の赤木柄短刀(あかぎつかたんとう)は、刀身に金銀象嵌を施したものである。
刀身への象嵌は上古刀には散見されるが、平安時代には珍しい。
錦などの裂類も、断片化してはいるが、染織遺品の乏しい平安時代の作品として貴重である。

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最終更新 2011年6月28日 (火) 08:27